ほんの日記|2021年5月

(左奥は買った本、平置きと右奥が読んだ本)
風呂に塩を入れてのんびり入ることを覚えたおかげでたくさん本を読めた。今月読んだ本、ぜんぶ良い本ばかりだった。

◎読んだ本◎
『老人ホームで生まれたとつとつダンス』『ほんのちょっと当事者』『こちらあみ子』『旅する練習』『旅をする木』『地球に靴で乗る』『きことわ』『結婚の奴』『塩の道』『美しい街』『わたしがいなかった街で』『個人的な三ヶ月』


5月1日(土)晴れ 地震

清々しい晴れ。上田のNABOにいた小野村さんが出ているラジオを聴きながら通勤。地元を離れてからの東京〜瀬戸内〜長野という経歴が他人事と思えなくて面白い。
10時半頃に強い揺れ。緊急地震速報が鳴り響く中でデスクの下にもぐる。これまで当たり前に信頼して立っていた地面がぐらぐら揺れることで、ぎりぎり保っていた何かが切れるような気持ちになる瞬間がある。他の人もそうなんじゃないかと想像して、誰も彼も心配になってしまう。最近は月1ペースで大きな地震が来ている。それもなぜか土日ばかり。

5月3日(月)晴れ

かよちゃんがTwitterに書いてくれた『まどをあける』の感想にあった「文章で人と出会い直す嬉しさ」という言葉に膝を打つ。文章を読んでその人の知らないところを発見するのは嬉しい。その嬉しさは書き言葉特有のものであるような気がしていて、だから人が書いたものを読みたいと思うのかもしれない。

5月4日(火)晴れときどき雨

GWらしい気持ちの良い晴れ(でも仕事)。昼休みに『老人ホームで生まれたとつとつダンス』を読む。もうずいぶん前に、アサノさんの編集だからと気になって買ったのだけど、長らく積読になっていた。でも最近、この本の構成を担当したのが青山ゆみこさんだとTwitterで知り、改めてちゃんと読んでみようと思い立った。砂連尾さんの人生遍歴が面白く、また自分とまったく違うタイプで興味深い。周りが驚くほどにすぐに自分で自分を褒めてしまう性格、いいな。
仕事帰りにサンモール古本市へ。古本市というものがものすごく久しぶりで楽しい。でも金港堂の店内なので、古本市というよりは突如古本屋が出現したみたいな感じ。内山節の本を2冊、それから『仙台本屋時間』をふたたび自分用に買い直した。久々に夜の街を歩いたけど、GWなのにやっぱり人が少ない。

5月6日(木)晴れ、夏のような陽気

暑い。昼休みにベンチで『とつとつダンス』の続きを読む。ままならない体のこと、病気のことなどを考える。いつも「不完全さ」ばかりを見つめて生きてきたことを思う。ままならなさを受け入れていくこと、万能感のようなものを削ぎ落としていくこと、それは生きる術でもあるし、他者を思いやるベースにもなる。良くなることを信じて目標だけを見つめて突き進んでいると、周辺の景色にどんどん色がなくなって、やわらかさが消えてしまうような気がする。強い信念によるサクセスストーリーのようなものがだんだん苦手になっているのは、そのストーリからはみ出してしまうものの存在が影に追いやられているように感じるからかもしれない。

5月7日(金)

休日。たいちゃんとともちゃんがお風呂から上がるのを待っている間に『とつとつダンス』を読み終える。面白かった。ダンスとは無縁の人生だけど、ダンス、と聞いて思い出すのは、寺井さんの『草原からの手紙』という本の中にある「踊ること」というエッセイ。そして、そのエッセイが好きだと伝えた時に寺井さんが教えてくれた、ダンサーの神谷理仁さんの記事だ。
4年前、いろんなことの転換期にありながらも目の前のことでいっぱいいっぱいで、毎日泣きそうなのを堪えていた時、寺井さんの言葉を受けて、ためしに踊ってみたのだった。何の役にも立たない動きをする。誰も見ていないから思いっきり自由に。そうしたら突然余白が生まれたように感じて、心が緩んでびっくりした。そういう日があった。

5月8日(土)

休日。ラジオクラウドで日曜天国のお便りコーナーを聞いてゲラゲラ笑いながら、部屋の整理整頓。本棚を廊下のロビーのようなところに並べたら、書斎のようなスペースができた。遠くの田んぼからカエルの合唱が聞こえてくる。良い季節。

5月9日(日)晴れときどき雨 母の日

休日。このあいだホシヤマ珈琲にうっかり入ってしまって1320円の紅茶飲んだ話、家族にウケたので嬉しかったのだが、その流れで母が珈琲無料券をくれた。何かの引き出物でもらったらしい。今日はそれを持って堂々と入店。こちらへどうぞと微笑まれ、椅子を引いて微笑まれ、相変わらず手厚い接客を受ける。とても素晴らしいのだけど、それを享受するのに相応しくない自分とのギャップから、心の中で乾いた笑いを浮かべてしまう。面倒な人間ですみません。
でも『ほんのちょっと当事者』を読み始めたらそんなことはまるでどうでも良くなった。すごく面白くて、とてもあたたかい本。

5月11日(火)晴れ

本の整理。バリューブックスの宅配買取に出すだめ、段ボールに本を詰める。詰め終えるとあと2冊入る余裕があり、別に満杯まで入れなくてもいいものの、売っても良い本をどうにか絞り出そうと棚を眺める。ふと、自然農法の本2冊が目に入った。たぶん10年くらい前、自然食に興味があって買った本。たしかに無農薬で玄米菜食の生活を続ければ体調は良くなるのかもしれないが、それらを取り巻く宇宙的な要素がどうにも苦手で、読まないまま本棚に差しっぱなしになっていた。そういう本なのだけど、忘れがたい思い出がある。ゲストハウスで管理人をしていた頃、共用スペースの本棚でこの本を見つけた宿泊者の男性が、目を輝かせながらわたしのことを「ソウルメイト」と呼んだのだ。同じものを信じている仲間に出会えた感動が駆け巡ったのだと思う。わたしは動揺して、いや別にそういうんじゃないんですけど……と塩対応をしてしまったのだけど、彼はその後も「ソウルメイトを見つけた」とFacebookに熱い書き込みをしていたので、何だかいたたまれない気持ちになったのだった。本棚のシンクロは人を興奮させるよね、という思い出とともに、その2冊を段ボールに詰めた。

5月13日(木)晴れ

昼休みに『ほんのちょっと当事者』の続きを読む。毎日1〜2章ずつゆっくり読んでいる。まさかおねしょの話からあんな展開になるとは思わなかった。

5月15日(土)晴れ

休日。『ほんのちょっと当事者』を読み終えた。本っ当に良い本だった。家族にも友達にも、大事な人みんなに読んで欲しい。誰も(過去の自分さえも)否定しないスタンスにとても救われる。読んで良かった、本当に。
午後に読み始めた『美容は自尊心の筋トレ』はあっという間に読み終えた。美容の本なんてほぼ読んだことない、というかむしろ避けているところすらあるのだけど、先日著者の長田さんがアシタノカレッジにゲストで出ていたので読んでみたくなった。この本はともちゃんが年頃になった時にでも読んでほしいな。女の子をとりまく呪いのような社会通念に苦しまないで、自分らしく生きて欲しいと思う。

5月16日(日)

仕事帰りに紀伊國屋に寄り、ともちゃんの誕生日プレゼントにディズニープリンセスの塗り絵ブックを買った。合わせて気になっていた『旅する練習』も。
帰宅後に『テセウスの船』(ドラマ)を見たのだけど、いやぁ〜全然入り込めなかった。ツッコミどころが多すぎると矛盾が気になって集中できない。綿密に練られたミステリーって本当にすごいんだなと改めて思ったり。

5月17日(月)くもり

昼休みにカレーを食べながら、半空文学賞の選考のため作品を読む。半分くらいはすでに一度読んだはずなのに、改めて読むとまったく新鮮な作品もあって本当に不思議だ。気分とか読むシチュエーションによって引っ掛かるポイントはすぐに移ろうものなんだなぁ。その時々で、ひとつの側面からしか作品を読めていないことを発見していちいち驚く。

5月18日(火)雨

今日からバスソルトを入れて長風呂をすることにした。人によっては滝のように汗をかくらしいが、悲しいほど汗をかきにくい体質なので、じんわりと汗がにじむ程度。それでもすごいことなので、しばらく続けてみたい。デトックス。
せっかくの長風呂なので本を持ち込むことにする。濡れても悲しくない文庫本にしようと棚を眺め、『こちらあみ子』を抜き出した。読み始めたら止まらずあっという間に読み終える。あみ子の視点からしか語られないのに、家族やクラスメイトや先生の心の動きがビシビシ伝わってくる。あみ子に嫌悪感を抱いてしまう一方で眩しさも感じる。怖いほどの真っ直ぐさ。わたしが持っていないもの。でもその真っ直ぐさは社会から歓迎される種類の強い信念などとは縁遠い、作為のない残酷な純真さだ。

5月19日(水)くもりのち雨

今日も長風呂読書をする。『こちらあみ子』の次に収録されてる『ピクニック』を一気に読んだ。なんだろう、味わったことのない気持ちになる。心理描写がないから感情移入はしない分、読みながら言いようのない感情がどろどろ生まれてくる。
寝る前に最後の短篇『チズさん』も読み終え、町田康と穂村弘の解説を読み、それがまた素晴らしかった。作品の魅力をこんなふうに言葉にできるのかと感動するし、それを読んでわたしの中にもまた新たな言葉が生まれる。だいぶ長い間積読になっていたけど、今になって宝物のような一冊となった。今村夏子の小説をもっと読みたい。

5月20日(木)晴れ

休日。良い天気。ひたすら文学賞の作品を読む。ふと、『ほんのちょっと当事者』に書かれていた「言葉を奪われること」について思い出す。文学作品を書くこと。自分語りができること。新しい物語をつくることができること。この人たち(応募してくれた方々)は言葉を手放さない人なのだと思い、胸がじんとなる。自分語りの受け皿があることの尊さにも思い至る。書いたものを誰かが読んでくれる、そういう文学賞のような場所があることはとても大事なことなのかもしれない。
作品だけで選考するといっても、作品の背景にあるその人の人生の厚みに否応なく意識が及ぶ。選ぶのは難しかったけど、最終的には納得して決めることができた。思えば書店にある本のほとんどは誰かが認めた結果世に出てきた作品だ。でもそうではない、まだ誰の目にも触れていない作品を読むときの基準は自分の中にしかなくて、そのことがとても良い経験になっている。他の人がどの作品を選ぼうが関係なくわたしはこの作品が好きなのだとみんなが表明することで、書き手と同様に読み手もまたユニークな存在であることを自覚する機会になる。

5月21日(金)雨

休日。先日わたしの本棚を部屋の外に移動したことで、父がそこから本を読むようになった。そんな中で『旅をする木』(わたしはまだ読んでない)を読んだ父に空前の星野道夫ブームがやってきたようで、今朝「文学館に行こうよ」と言い出した。いまちょうど星野道夫展をやっているらしく、せっかくなので父と母と私の3人ででかけることに。展示、とても良かった。外にひらいていく好奇心と、それを人に伝えたいというまっすぐな姿勢に惹かれる。
夕方、『旅する練習』を読んだ。さわやかで温かいものがじわりと残る。とてもとても良かった。読み終えてから帯を読み、うんうんと頷きながら、「衝撃のラスト」などとは書かれていないことに心から感謝した。
今日の塩風呂本は星野道夫の『旅をする木』。湯気の中で開くと古本独特の甘い匂いがした。だいぶ年季が入っているこの本はどこからきたのだろう。わたしが買ったのか、過去に父の本棚からくすねたのかまったく心当たりがないけれど、いつの間にかわたしの本棚に差さっていた。

5月23日(日)くもり

昼休み、曇り空のベンチでパンを頬張りながら、このあいだカネイリで買った『地球に靴で乗る』を読む。小檜山さんの写真が載っているから思わず買ったものの(写真とてもよかった)、靴のブランドのPR本かと一瞬がっかりした。が、能町さんのエッセイ「境界を見つけて超えていく」がとても良くて、読みながら『旅する練習』を思い出したりした。
エッセイに感化されてわたしも境界を超えてみることにした。仕事帰り、いつもは左に曲がる道をまっすぐに進む。近所なのにほとんど踏み入れたことがないエリア。このまま進むと昭和にタイムスリップしたような団地があることは知っていた。でもその先はどうなっているんだろう。目的地はない。何となく思いつくままに進む。知らない山道に入ってしばらく進むと、見覚えのある景色が視界に広がった。父の畑の奥にある川、その川向かいの道だった。見たことのない角度から畑を見る。そのまま進むとよく知る大きな通りに出たので、脳内の地図ががらりと更新された。家からほんの5分の場所だった。
風呂では朝吹真理子の『きことわ』を半分読んだ。ここは風呂で自分はまっ裸で明日も仕事だという事実をすっかり忘れて、頭の中では夏の葉山にいた。日常の中の気分転換ってどうやったらいいか分からずに生きてきたけど、これが最適解かもしれない。

5月24日(月)くもり

夕食後に『きことわ』を読み終える。「父親は食事の後片付けをしながら、この切れ目のない皿洗いの果てに老年があると言った。」この地味なシーンがハイライトのように感じた。記憶と夢とうつつ。余韻が残る小説。
塩風呂で『ペスト』を読み始める。先週の飛ぶ教室(ラジオ)を聴いていざ読むことにした。

5月26日(水)くもり

ペストは4分の1くらい読んだところで眠気で集中できなくなったので、塩風呂では気分転換に『結婚の奴』を読み始めた。めちゃくちゃ面白いし、文章うまいなぁ。

5月27日(木)雨

仕事帰りに『ブックセラーズ』を観ようと意気揚々とチネラヴィータに行ったら、それはフォーラムですと言われる。上映時間まであと10分、無理だ。今日が最終日だった。がーんという古典的な擬音を脳内で叫びながら、でもせっかく駅前まで来たのにこのまま帰るのもなぁ、明日休みだし、などと考えていたとき、イービーンズでちょうど古本まつりをやっていることに思い至り、寄ってみる。宮本常一『塩の道』、石坂洋次郎『青い山脈』、平川克美『自分に似ている人』、鷲田さんの『ちぐはぐな身体』を買った。カバンが重い。閉店間際までいたから、ちょうど映画が終わるくらいの時間になった。
風呂で『結婚の奴』を読み終えた。ああ面白かった。わたしも恋愛感情抜きの生きていく術としての結婚がしたい。面白かった〜という気持ちの勢いで、今日買った『塩の道』も読み始める。読み始めたらその読みやすさにとても驚いた。宮本常一、もういつから「読むべき本」として本棚に差さっているか分からない『忘れられた日本』とかも、もしかしてこんなふうに読みやすいのかなぁ。このあいだ星野道夫の本を読んだときにも感じた、え〜なんという読みやすさ!という感動。読みやすい文章を書くってすごい才能だと思うのだ。

5月28日(金)晴れ

休日。暖かい。塩風呂で宮本常一の続きを読もうとしたけど何度も睡魔に襲われて断念。ビールを飲んだのがいけなかったよう。風呂上がりに濱口竜介監督の『なみのこえ』を観た。人の言葉、生の声。それらがストーリーに絡め取られることなくそのままが映っているように見えて、その安心感がとても新鮮だった。同じ時代を生きているはずなのに、触れることのなかった声。聞きたかった声。

5月29日(土)晴れ

昨夜は津波の夢を見てしまった。寝る直前に『なみのこえ』を見たからだと分かりきっているので、今日は早い時間に『なみのおと』を観て、風呂では柴崎友香の『私がいなかった街で』を読み始めた。

5月30日(日)晴れ

帰宅すると一子さんから『個人的な三ヶ月』が届いていたので、わっと声をあげて開封。早速柴山さんのエッセイ「大きく息をするひと」を読む。編集者の視点で一子さんについて語るやわらかくて誠実な言葉。一子さんや柴山さんの言葉に触れると、自分の生きている場所を確かめているような感覚になる。同じ時代の空気を吸い込みながら、それぞれに変容していく個人個人のことを思う。
長らく借りていた『美しい街』も読む。とっても好きだ、と思う。これは借りるんじゃなくて買うべき本だ。能町さんのあとがきを読み、尾形亀之助が宮城出身だと知る。好きな作家の墓参りに行くという発想はなかったけど、そういう旅もいいなと思う。
寝る前に『わたしがいなかった街で』を読み終えた。こんな小説を書ける人がいるのか、そして同時代に生きているのかと静かに興奮する。本当に大好きな作品になった。物語の舞台となっている東京も大阪も土地勘があまりない。だから知らない景色を思い浮かべて読んでいたのだけど、夏に高松を訪れるシーンから突然イメージの解像度が上がり、肌感覚とともに情景が浮かんだ。もし高松の街を知らなかったら全然違う物語に感じるのだろうと思うと同時に、大阪や東京や沖縄で暮らしたことがあったのなら、それもまったく違う物語になるのだろうと思った。同じ本を読んでいたとしても、読む人の環境や経験によって受け取るものはまったく異なる。そんなことはこれまでに何度も思ってきたことなのに、また飽きもせずに驚いてしまう。そして地名だけではなくあらゆる言葉もフックになる。例えば文中に2011年という言葉が出てきたら、すこし緊張して、ページをめくっていた手を止めてしまうと思う。それは誰かにとっては1995年だったり1945年だったりもするだろうし、もっと個人的なこと、例えば自分が生まれた年のように、どの年にも誰かにとっては特別な意味がある。あらゆる言葉、色も音もそうだ。そう思ったら同じものを見ていたってもう全然違うものを感じている、そのバリエーションの際限のなさに目眩がしてくる。

5月31日(月)晴れ

昼休み、歩いて戦災復興記念館に行った。昨日読んだ『わたしがいなかった街で』に描かれる「わたし」の物語には、戦時下に綴られた日記がかたわらにあった。かつて空襲にみまわれた街で暮らした人が残した言葉を読みながら、いま立っている場所に積み重なる時間や人の営みを想像する、それが物語の軸となっていた。それでふと、仙台でも空襲の時代を生きた人の日記があるのではないか、あるなら読んでみたいと思った。
数年前に地元に帰ってきた時も、この薄っぺらい、世界の上澄みだけをなぞったような目の前の景色をどうにか奥行きのあるものとして捉えることはできないか、そうしないと足元がおぼつかなくてここに立っていられないと思った。それで歴史を調べるようになった。地元を好きになりたいとか魅力を発見したいとかいう実利的なこととは違う。ビジネスマンとして教養を身につけるべきという動機で歴史を学ぶ人がいるが、そういう人間社会における有益さとは随分遠いところにある、何か切迫した欲求だった。
戦災復興記念館にある資料図書コーナーを見たくて展示室に入場したのだけど、図書コーナーは現在開けられないらしく(コロナが原因?よくわからない)、結局入れなかった。
風呂では一子さんの『個人的な三ヶ月』を読んだ。風呂を出ても読み続け、本を閉じたら2時を回っていた。読み出すと止まらないことは分かっていたけど、あれ、こんなに止まらないんだっけという感じで、本当に休む間も無くスラスラと読んだ。読み終えて、なんだか明るい気持ちになっている。ハッピーエンドはまだまだ先で、一子さんの日々は今日も続いている。そう思えることが何だか嬉しい。

ゆり
元書店員、現在は文化施設の職員をしています。「ほんの日記」は、毎日書いている日記の中から読書記録などを抜き出したものです。